忍者、刀、あるいはボンデージ

その昔、忍者は敵方の情報や陣形を記憶に留めるため、目や耳で情報を得たその瞬間に、自らの身体を刃物で傷つけたそうです。そして自陣へ戻ってそれらを報告する際、その時の傷に触れることで、痛みとともにその時の情景が蘇る…という寸法です(このエピソード、いつ・どこで・または何によって見聞きしたのか、とんと思い出せないのですが)。

このような「関連づけて覚える記憶」というものが、私にもあります。

それは数年前の夏の終わりの頃、店を終えて帰宅途中の未明の事です。歩きながら司馬遼太郎を読んでおりました。幸いにも都心の夜道は明るく照らされているものです。

明け方の西麻布と六本木の間の通り

ボンデージ出現ポイント付近。明け方の六本木通り歩道にて。

……と、視界のかたすみに何かが飛び込んできました。ふと目線をそちらに向け、ギョッとしてすぐに文面へ戻しましたが、以来、「菊一文字」という短編を読むたびに、首になにやら書かれたフダをぶらさげ、長身で、素肌もあらわなボンデージ姿で立つ女性が、今でもありありと網膜に蘇ります。

忍者修行をしていない私でも、ばっちり記憶に留まりました。

オレンジ便り 2006年 9月配信分


追記:いまでも悔しく思うのが、その「ボンデージ女性」と「ボンデージ女性をみて慌てふためく私」の様子を、きっと別の場所から見ていて、喜んでいた人物がいたであろう事。

立ち止まって、きっとヒワイなことでも書かれているフダを読み、そして、じっくりと観察してやればよかったと、いまなら思えます。

ちなみに菊一文字とは、新撰組・沖田総司が差していた(そうでないという説もあり)刀の銘。

 
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